量子化音声データの非可逆圧縮記録は「複製」か?

言葉をコネてみたが、要するにMP3を始めとする音楽ファイルの作成が、当たり前に「複製」とされていることに疑問を感じているのだ。

ディジタル符号化

音って空気の震えである。小さな発電機を備えた薄い膜を置いておくと、空気の震えを電圧の震えに変えられる。これが生の音声信号。更に何万分の一秒って細かさで何ボルトか記録する、これがディジタル符号化。時間の区切りが細かいほど、電圧の読み取り桁数が多いほど、元の空気の震えを精密に記録できる。

聞こえりゃイイじゃん

ただ人間の耳っていい加減で、「音」として聞こえる範囲って知れたもの。やたら細かくしてもしょうがない。記録できる量にも限りがあるし。で、「果たしてどんくらいの細かさにするべ?」って喧々諤々していた席に名指揮者カラヤン登場、「CD一枚74分にせぇ」、そうしましょそうしましょ。ちなみにカラヤンがベートーベンの第九を指揮するときの演奏時間が「74分」だそうな。

聞こえりゃイイんじゃん?

その後、またも人間の耳のいい加減さが持ち出される。たぶんイケスカナイ助手が博士にこんな雑談を持ちかけたのがキッカケ。
 助手「なんか震え幅が小さい高音って、とりあえず聞こえてなくない?」
 博士「あー、聞こえない聞こえない」
 助手「じゃCDよりもっと小さなメディアで音楽記録できなくない?」
 博士「あーできるかも」
んで、MD(死語)、DCC(やっと思い出せた)が実用化。このころの圧縮技術ってワシの耳にもわかるくらい良くなくて、スザンヌヴェガを録音したら「サ行」のたびに耳が千切れそうだし、奥田民生を録音したら音痴で聞いていられなかったり,佐野元春を録音したら真夜中の扉に足を掛けてこの街のノイズに乾杯してしまったりと,とにかく良くなかった。やっぱいくらいい加減だって言っても生ディジタル量子化が限度だな、とワシは思っていた。そう思っていたのはワシだけでは無かったらしく、DCCは普及すらしなかった、MD(死語)は頑張ったんだけどな。

パソコンでインターネット

んで、現在の圧縮音楽へ、と。技術は進化し、少なくともワシの使える再生装置と耳ではCDと圧縮音楽の違いは分からなくなった。

で、どうなのよ

まぁ、MP3 - Wikipediaあたりに細かいことは書いてある。実は信号を分析すると正直よくこれで同じ音楽に聴こえるなぁ、ってくらいの違いがある。ワシにはワカラナイがその道のプロである演奏家、作曲家とかレコーディング技術者には違う音に聴こえるはず。逆に違いが分かってこそのプロ。ワシも仕事では圧縮音声は使わない、耳ではワカラナイけど計測器には違いが現れてしまうので使えないのだ。
この辺「楽天が運営するポータルサイト : 【インフォシーク】Infoseek」も参考文献としてリンクしておこう。

結論

「インターネットと複製権」に斬り込む意気込みで書き始めた。生ディジタル音声は「人間の耳に聞こえる範囲」で忠実に「空気の振るえ」を再現している、。一方、圧縮音源は「同じように耳に聴こえる」ことが意義であり、忠実さは割愛されている。あれ、生ディジタル量子化の細かさを決めるとこで既に「割愛」が行われていることを確認してしまった。コレでは斬り込むには明らかに材料&力量不足である。
しかし、圧縮音声ファイルによるダウンロード販売はやっぱり買う気がしない。聴いてもワカラナイけど、明らかに信号が劣化していることを知っているから。CD規格の生ディジタル音声ファイルなら好きな曲は買う。40MBとかになると貧弱なDSL環境ではダウンロードに結構な根性が必要だが、音楽ってそれくらいの価値のあるものだと思うのね。圧縮音楽ファイルのダウンロード販売を黙認しているプロ達には自省を望んでいる。あなた達が制作している「音」のクオリティが再現できてますか?。