怒りとか暴力とかについて

その存在は憎むべきもの,と言ったとたんに憎悪という怒りに捕われる自己矛盾。ヒトは怒るし暴れる,言葉と体にその機能を備えているから。でも直接の破壊でなく代替の行動に(昇華|消化)というコントロールが制してきたから現代の個人→(家族|組織)→社会が成り立っているのですよね,なるほど。
「手を洗う」具体的な行動に費やす時間のワンクッションで合理を考える,なるほど。ただ,この筆者はこのブログ書いてる時間で「手を洗って」るよね,と思いました。

  ・わたしは怒っている
  ・わたしは、○○に怒っている
  ・わたしは、○○という態度を不快に感じて、怒っている
  ・わたしは、するべき○○がなされていないので、怒っている

クォーテーションで括ったりエスケープしなきゃならん記号を混在させてしまってはいないか,いやまぁそれはいいか,と。